佐藤卓己・井上義和 編 『ラーニング・アロン 通信教育のメディア学』(2008年,新曜社)

2020/12/25

 本学会の会則における目的は、「本会は、開かれた教育を目指して通信教育を研究する会員相互の交流を促進し、学術研究並びに調査活動を通じて、通信教育の普及発展に資することを目的とする。」とある。この普及発展には、通信教育について著された書籍を分析することは有益である。今回は、刊行から12年の時を経た「ラーニング・アロン 通信教育のメディア学」(以下、本書)について評したい。
 本書は、ラーニング・アロン(孤独な学習)をテーマに比較的研究者としては若い世代(30代、40代)を中心とした様々な領域の研究者が、明治時代の講義録から通信教育を経てeラーニングに至る遠隔教育の系譜を独自の視点から論じた全11章、360ページから構成されている。ちなみに、筆者が確認する限りでは、出版時までで、編著者を含めた各筆者に通信教育に関する研究業績は見受けられなかった。
 その上で、本書の書評として、全章を挙げることが紙面都合もあり難しいため、全体及び第1章に絞り述べる。
本書を端的に評するのであれば、様々な「通信教育」について、事実を基に、批判的に論じている書として表現することができる。そこには、編著者の共通見解として、通信教育を「何らかの事情から学校など教育施設にいけない個人がメディアを利用して行う孤独な学習(ラーニング・アロン)」と定義している点にある。この定義に、筆者は、一つの定義としては、理解するものの12年前でも、現在でも、通信教育の定義は一つに絞れないと考えている。それは、すべての通信教育は、個々の受講者の自発的な目的達成のために展開されており、学位取得や資格・免許取得のためのみで、教育が展開されていないからである。そうなるとなおさら、何らかの事情から教育施設にいけない個人と特定することもできない。現に、学費を支払う経済力を有し、心身の健康状態が良好で、時間融通ができる状況であっても、「通信教育」を選ぶ事実があるからである。
 そして、本書の根幹となる第1章は、「蛍雪メディアの誕生」では、明治時代に入り、身分制度が解体され、能力次第で高い地位に就くことが可能となり、近代化が進展する中で、官立学校での養成だけでは間に合わなくなった弁護士や医師といった職業について資格試験が制度化される。そうした時代背景の中、資格試験のための学習手段として「講義録」が生まれる。「講義録」は、専門学校(現在の私立大学)で資格試験のための授業が受講できない勤労者や遠隔地在住者を対象に、講義内容を文章化し配布したものであり、日本の通信教育の原点ともいえる教育形態であった。しかし、現実は、勤労を続けながら「講義録」を用いた独学で持続した学習により厳しい選抜試験に合格する者は少なかった。講義録は、立身出世熱を帯びて合格の可能性を信じ独習する者の学習心を顕在的に「加熱」させ、学習過程や試験結果により挫折した心を潜在的に「冷却」させた。
 明治から150年以上の時を経た、現在でも難関資格に通信教育を介して挑戦する受講者にとっても、「加熱」と「冷却」が機能しているのかもしれない。
 そして、第1章により通信教育による受講者のイメージが「孤独」などというネガティブな捉え方となった。しかし、筆者は、一方的なものだと感じている。その理由は、対面による教育が一番良いという長い歴史が作り上げた一つの「教育観」があり、例え試験に合格せずとも学んでいたことによる効果を検証しない限り、「孤独」などの実証は難しいのではないだろうか。
 最後に、筆者は、改めて、「ラーニング・アロン」(孤独な学習)という言葉自体がナンセンスであり、これからは、ネガティブなイメージではなく、ポジティブなイメージを想起させる「新たなる言葉」を創造することが設立から70年を迎える本学会の新しい使命なのではないだろうか。そうであれば、複眼的に通信教育を捉える意味で、本書は、本学会員必読の書と言えるだろう。

(神奈川工科大学 寺尾 謙)
(「日本通信教育学会報」通巻55号より)