三好京三『キャンパスの雨』文藝春秋, 1979年.

2013/07/16

 『子育てごっこ』で直木賞を受賞した三好京三が、自身の体験をもとに書いた中年大学生の通信教育奮戦記である。三好が慶應義塾大学文学部国文学科(通信教育課程)に入学したのは昭和40年4月、卒業は46年3月なので、卒業までに6年かかっている。一方、小説の主人公の信吉は4年で卒業している。その4年、4回にわたるスクーリングでの出来事を、汗と涙、それに多少のロマンスを交えて、遅れてやってきた輝ける青春として生き生きと描いている。
  信吉は、村の小学校の分校で妻と二人で教師をしている。子供はいない。学歴は、旧制中学4年から新制高校2年に移行して卒業している。教育委員会からは「職務専念義務特別免除」の休暇をもらい、PTA会長や婦人会長からは「先生ァ、子どもの模範だ」と持ち上げられ、夫婦二人分の給料を注ぎこんで参加しているスクーリングだから、脇見などしている余裕はないはずだが、そこはそれ、女性が多い文学部ということもあって女性に目が行くことも多い。
 「二十ページまで、お読みになってくるように」などと学生に敬語を使う英文学の若い女講師に「勉強して差し上げなければ」という気持が湧いてきたり、大学助教授の夫が外遊中の退屈しのぎにスクーリングに来ている隣席の女に生物学実験で頼られたりする。府県対抗ソフトボール大会で知り合った同県の丹野エミ子とは、漢文学の講義を一緒に受けたりしているうちに急速に親しくなる。そして、科目試験を受けに出かけた東京で偶然にエミ子に出会うと、次のスクーリングでの「一夏の、短い結婚」を言い出す始末である。
 それはともかく、この小説を読むと、いくつか面白いことに気づかされる。第一に、入学試験である。通信教育に入学試験はないと思われているが、この時代にはそれがあった。正確には「学力考査」だが、小説では一貫して入学試験となっている。卒業するまでに受かればいいという気楽な試験ではあるが、合格しないことには卒業できない。信吉が受けるのは英語、国語、社会の3科目だが、かつては数学、理科、小論文それに面接試問まであった。第二に、42日間(間に3日の休み)という長期にわたるスクーリングである。しかも、修得できるのはたった8単位。現在の慶應義塾大学の夏期スクーリングは、1期7日間で4単位、3期21日間で最高12単位まで履修可能である。授業時間外の学修をスクーリング期間に組み込むか否かの違いであろうが、仕事をもつ社会人にはそれはあまりにも大きな違いである。第三に、スクーリング中の宿舎である。地方の学生にとってこれは今でも変わらぬ悩みの種だろうが、信吉が宿舎としたのは、1年目が30畳に12人が雑魚寝する雑居房のような会館、2年目が通学課程の女子学生が帰省中の部屋、3年目が隣に新婚夫婦が住む棟割長屋の真中、そして4年目が邸町の大きな家の2階といった具合である。確かに、42日間ともなれば、ホテルなどとんでもない話だろう。第四に、卒業を阻む難関科目の存在である。腹の出ている信吉にとって過酷な責苦である体育実技はもちろん、どうして文学部の者が数学をやらなければならないのかと、数学を必修にしている大学をうらめしく思ったりする。そして、数学の科目試験に備え、東北の旧帝大の数学科に入学した妻の甥に上京してもらい、午後3時にスクーリングの授業が終わってから夜11時まで、10日間の特訓を受けてかろうじて「C」の評点を取ることに成功する。平成3年の大学設置基準の大綱化以後、科目区分が撤廃され、不得意科目を履修する必要がなくなってからは、こうした苦労をする学生は少なくなっているに違いない。
 このように、大学通信教育は、制度化されて60年の間に大きな変貌を遂げていることを教えてくれる。
  一方、三好が在籍していた昭和40年代前半は大学紛争の時代であり、慶應義塾大学の通信教育部もその嵐の中で、修業年限を5年に変えようとする文部省の改善要綱問題(40年3月)にはじまり、学内の通信教育廃止論問題(41年9月)、入学後2年以内に学力考査に合格しないと卒業資格が得られなくするという実施要領改正問題(44年4月)など、多くの問題が噴出している。そして、通教自治会の公認と自治会費の代理徴収を求める学生による校舎封鎖、ヘルメット学生と一般学生との乱闘と流血、通信教育部長の拉致、負傷によって昭和44年の夏期スクーリングは途中中止という最悪の事態に至っている。通信教育の存続すら揺るがすこうした出来事に一切触れていないのは、小説だからなのか。それとも、通信教育生の関心の多様性を表していると考えるべきなのか。
 夏期スクーリングの時期に読んでほしい1冊である。

(鈴木 克夫:桜美林大学)

「日本通信教育学会報」(通巻38号)より