大原富枝『婉という女』」講談社, 1960年.

2013/08/19

 主人公・野中婉(1660~1725)が初めて師・谷秦山と出会ったときの思いを、大原富枝はこう書く。
  「おお、お婉どのか―」
  わたくしはあっと思った。(中略)低い声で呼ばれた自分の名が矢のようにわたくしの心に、体に刺さった。
  女には生涯にただ一度呼んで欲しい自分の名があるものではあるまいか。

 時に婉は44歳。秦山から儒学や詩歌などに関する書簡による指導を受けてから約5年間。秦山からの兄宛書簡を介して師を知ってからすでに約17年間。4歳の時、土佐・宿毛(すくも)に幽閉されているので、もはや40年。酷い時間の積み重ねがあった。書簡のうえでしか知らない師の、生身の姿との初対面。その感激は筆舌に尽くしがたいだろう。

 野中婉は土佐南学の流れを汲む朱子学者であるとともに土佐高知藩の家老・野中兼山(1663~1718)の四女である。兼山は南学による庶士の教化にあたり藩政の指導者として辣腕をふるった。とりわけ吉野川の支流や仁淀川などの治水工事と新田開発、堤防や港などの土木工事も強力に押し進めた。しかし、政敵の登場と過酷な労働を強いられた領民の反感によって失脚する。失脚後、すぐに亡くなるも、子女8人とその母4人(兼山の側室)すべて宿毛で幽囚となる。わずか4歳の婉もこの政争の犠牲となる。幽閉は男系が絶えるまでという理不尽な刑であったので、最後に生き残った弟が死ぬまで40年の長きにわたった。この赦免まで婉は竹矢来に囲まれた家で成長、世間との交流はなかった。

 しかし、この間、父・兼山を慕う谷秦山(丹三郎)が面会に訪れる。面会は許されなかったが、その後、兄・希四郎と文通をはじめる。この兄が亡くなると婉が秦山と文通することになり、赦免後、冒頭のような対面の機会を得るのである。

 作者のねらいは通信教育にはない。当人には責任を問えない不条理な環境で生き抜く女性、恋愛も結婚も許されない女性の生涯にある。この女性の生涯を支配する男たる武士の政争への義憤もある。しかしこの物語を織りなす資料は書簡である。婉などが認めた信書である。婉や兄や弟たちは「世間という大きな書物」(R.デカルト)を知り得なかったけれども、「ふみ」(書物と書簡)をとおして、世界について学んだ。不条理な環境のもとでも学問することはできた。書物に学んだ成果を師に問う「ほそぼそとした文通」はできた。宿毛から土佐・朝倉に移転を許された後も医師のかたわら学問は続け、秦山の講義を直接、聞く機会もあった。しかし藩政や世間をはばかり、秦山が亡くなるまで手紙で交流することになる。

 この意味で『婉という女』には「ふみ」を生かす通信教育の原型がうかがえる。丹念に読み深めると書簡で学ぶ人びとも垣間見える。

 谷秦山自身、京で学んだ後は在郷で山崎闇斎などに書簡指導を受けた。江戸の渋川春海(2012年に映画化された『天地明察』の主人公)にも書面で入門、文献の解読や天体観察などの成果を春海に送り書簡指導を受けた。婉が講義を聞く時期には江戸を訪れ春海から対面指導も受けたし、みずからも蟄居の身となった後、答問書を交わしている。

 この秦山は蟄居の後、弟子の宮地静軒に書簡指導をしている。この静軒の子息、宮地春樹(1729~1758)は本居宣長に書簡指導を受け『万葉問目』『万葉私考』を残すことができる。宣長の春樹宛書簡には「千里をへたて往来不便ゆえ残懐」と指摘するも通信教育は続けた。

 京や江戸からの遠隔地、流刑の地・土佐にあっても、またその土佐で幽閉されても書簡は「へだたり」を埋め「へだたり」を生かすことができた。

 この作品はまた文字教材の作成のヒントを与えてくれる。作者が候文、会話、独白などの文体、ルビ、傍点、鍵カッコなどの多彩な表記をしているからである。とりわけ「兄妹(きょうだい)」「生理(からだ)」「関係(ありよう)」「情(つれ)ない」「真実(まめやか)さ」などのルビは興味深い。音声のない文章はこのルビなどの表記によって登場人物の重層的な情理を訴える。ひらがなのルビ表記も主旋律を支える伴奏ではなく、いずれも主旋律の、いわばポリフォニーのような効果をもつ表現である。アルファベットだけののっぺりとした欧米の表記とは異なる日本語独特の多彩な表現の可能性を示唆する。

 なお、現在この作品を読むには新版の講談社文芸文庫、『婉という女・正妻』(2005)がある。「日陰の姉妹」も収録されている。「正妻」も「日陰の姉妹」も権力者の「冷酷無残な理想」をえぐり出している。


(白石克己:佛教大学)

「日本通信教育学会報」(通巻39号)より