手島純『これが通信制高校だ』北斗出版, 2002年.

2014/01/20

 著者の手島氏は、高校教諭として、15年間公立の通信制高校に勤務した経験を持ち、現在も通信制高校に関する研究や発言を続けられている。
 本書は「これが通信制高校だ」というタイトルだが、内容は日本の通信制高校にとどまらず、ドイツやアメリカにおける通信教育や、遠隔教育の現状にまで及んでいる。また、日本の通信制高校についても、設置経緯から現在の多様な高校の実態に至るまで、文献調査や著者の教員としての経験、高校への訪問調査によって詳細に述べられている。そして最後には、教育の在り方そのものに対する提言がなされている。現在、通信制高校に関連する書籍の多くは学校案内で、通信制高校に関しての研究はまだまだ少ない。そのため、特色ある学校の様子を知る事はできても、ベースとなる制度的背景や、通信制高校の生徒の多様化による問題が指摘されることは少ない。こうした中で、本書は通信制高校の在り方、学校教育の在り方にまで踏み込んだ貴重な一冊である。
 さて、戦後、意欲があってもなお受けることが難しかった高校教育をより多くの人々に開放するため、通信制課程が設置された。通信制高校発足当時に想定されていた入学者は、成人や勤労少年であった。しかし、中学校等卒業生の98%が進学する現在、通信制高校の生徒は勤労成人者と若年無業者とに二極化しているという。
  高校通信制課程は、他の課程とは異なり、各自が自身の都合に合わせた時間と場所において取り組む添削課題が学習の中心に据えられている。そのため、生徒が登校して対面による指導を受けるべき時間数は、他の課程と比べると非常に少ない。そのため通信制高校では、生徒は各自のペースに合わせて学習に取り組むことができる。また、生徒の登校日数が少ない通信制高校では、いじめが起きづらく、不登校は成立しない。こうした特徴から、多様なニーズを受けとめているのが現在の通信制高校である。しかし、生徒の学力や学習意欲にもばらつきが大きく、自律的な学習を前提としていた通信制高校において行われる教育の在り方も改めて問われるようになっている。
 在籍生徒の入学経緯や目的が多様である以上、彼らが求める教育の在り方も異なっている。当然、一つの学校ですべてのニーズに応えることはできないため、私立の通信制高校は、それぞれに特色を打ち出し、更に個別支援を充実させることで、多様なニーズに対応している。通信制高校における教育は通信教育に限らない。すべての通信制高校では、学習指導要領によって定められたスクーリングが実施されている。しかし近年では、通信制高校における学習をサポートする「サポート校」や高校自体への登校日数を増やした「通学型通信制高校」などが登場している。スクーリングの実施方法や制服の有無、生徒指導の内容、設定された登校日数の多寡など、近年では、通信制高校が、「近代学校」的な学校を求める若者のニーズまで満たすようになっているのである。このような状況をどう捉えるべきか。
 私立を中心に通信制高校が増加を続ける中で、通信制高校とは何かということを問うことは、本書が出版された当時以上に重要になっている。通信制高校が、通信による高校教育をより充実させるためにも、より手厚い支援を必要としている生徒のための学校が、「通信制」制度の柔軟さを利用するのではなく、より生徒のニーズに適した教育を行うためにも、高校教育制度が見直されるべき時期に来ているといえるだろう。
 本書の最終章は、学校教育の在り方の検討に割かれ、「学校」や「教育」そのものに対する問題提起がなされている。果たして高校教育とは、学校教育とは、何を目指し、どのように行われるべきものなのか。通信制高校における多様な教育の在り方を前にすると、こうした問いに直面せざるを得ないが、著者は最後に、通信制高校の今日的意義について次のように述べている。

  通信制高校のようにいわゆる近代学校的ではない教育方法をとる学校へと、
 近年、若年層が増えていく傾向は、通信制の中に既存の学校への違和感を超える
 ものを彼らが見出していることの証左ではないでしょうか。(中略)通信制高校の今日
 的意義とは、通信制高校に限定されたものではなく、教育一般へと広げて考えること
 のできる質を含んでいると私は思います。(p.170)

通信制高校の在り方について考えようとすると、学校教育における「当たり前」を疑い、本来の学びの在り方にまで目を向けることになる。裏を返せば、教育の目的やその意義について考える時、通信制高校を参考にしない手はないのである。

(土岐 玲奈:東京学芸大学大学院)

「日本通信教育学会報」(通巻41号)より