通信教育からの提言

2020/04/15

「通信教育からの提言」について

 新型コロナウイルス感染症の影響で、学校種を問わず、授業の開始の目途が立ちません。そんな中、学習機会を確保する観点から、対面による授業に代えて、遠隔授業の活用が強く求められています。通信教育を含む遠隔教育の普及を目指してきた私たちにとって、長年にわたって培ってきたノウハウがお役に立つ機会なのではないかと考えています。
 そこで、期間や回数は決めていませんが、リレー形式で私たちの知見をご紹介させていただこうと考えています。この非常事態に、少しでも皆様のお役に立てれば幸いです。
 
2020年4月15日
日本通信教育学会 会長
鈴 木 克 夫
 


「通信教育からの提言」について (鈴木 克夫)
第1回 自学自習 (古壕 典洋)
第2回 今、学校、教師に求められていること (土岐 玲奈)
第3回 大学における遠隔授業(メディア授業)の適切な運用について (田島 貴裕)
第4回 通信制高校の方法を参照するということ (井上 恭宏)
第5回 今こそ「大学通信教育」の活用を! (山鹿 貴史)
第6回 緩い「つながり」の遠隔教育 (白石 克己)
第7回 大学にもたらされた変化、もたらされない変化、未来の可能性 (石原 朗子)
 

第7回 大学にもたらされた変化、もたらされない変化、未来の可能性

大学にもたらされた現象としての変化

 学校現場が臨時休校になり久しい。未だなお、多くの学校がその影響にさらされている。大学に目を向ければ、通学制では授業の開始時期を延期した大学が約9割に及び、半数の大学は遠隔授業の導入を実施・予定している。遠隔授業の導入は国立大学に限れば7割にも上ると文部科学省調査(4月23日付)では示されている。コロナ禍のなかで、新しい技術の導入は急速に進んだ。文部科学省は5月1日の事務連絡「遠隔授業等の実施に係る留意点及び実習等の授業の弾力的な取扱い等について」の中で、大学設置基準第25 条第1項にふれながら、本年度は「特例的な措置」であるとして以下のように記述している。

  面接授業に相当する教育効果を有すると大学等が認めるものについては,面接授業に限らず,
  自宅における遠隔授業や,授業中に課すものに相当する課題研究等(以下「遠隔授業等」という。)
  を行うなど,弾力的な運用を行うことも認められます。


 筆者は、この記述を複雑な想いで見ていた。複雑には、この記述への安心と、今後どうなるのだろうという想いがある。
 まず、安心した部分を論じたい。昨今、遠隔教育、特に通学制の遠隔授業の導入は急速に進んだ。そこでは、学修の保障が謳われつつも、形だけの保障論になりはしないかという懸念が筆者にあった。学修の保障は質の担保を伴ってのことなのだから、機会を提供するだけではなく、その機会の質が肝要だからである。この点については、上記の動きを見る限り、徐々に追い付いてきたように見える。
 ここからは、安心したうえで、今後どうなるのだろうと考えた部分について論じたい。
 今回、遠隔授業は急速に進展し、これは何らかの形で直近の教育現場を影響することとは間違いない。と同時に、そこにはいくつかのシナリオが考えられる。

シナリオ1:
・遠隔授業が教育を変える、教育の可能性を広げる(定着し、大きく教育が変わる)
シナリオ2:
・遠隔授業は選択肢の1つになるが、教育は対面重視に戻っていく(多少のみ定着する)
シナリオ3:
・遠隔授業は嵐のようにやってきて、嵐のように過ぎ去っていく(ほとんど定着しない)

 現在の状況からは「シナリオ1」を想定する人も少なくないだろう。少なくとも影響があり、教育が変わる「シナリオ2」を想定する人は多いだろう。だからこそ、情報格差や、学生の通信料の問題などが議論されているのでもある。
 だが、実際は「シナリオ3」に落ち着く可能性が高い。「やってみたけど、やっぱり対面だよね。対面にはかなわないよ。だって、遠隔授業は補助手段だから」。人々がそう感じて終わってしまえば、対面こそが教育だという発想は変わらないし、補助手段としての価値が高くないとみなされれば、遠隔授業が1つのブームで終わってしまう可能性もなくはないのである。
 そのように述べる背景には、現在の遠隔教育の捉えられ方の課題がある。

大学にもたらされないかもしれない認識の変化

 筆者は今、通信制大学に所属している。本学ではオンデマンド型ではなく、同時双方向のオンライン授業が主である。先日、本学で研修があり、その中で「対面授業での活動」と「ライブ配信で使う機能」の対応について解説があった。対面と同じことがライブ配信でできるという趣旨なのだろう。通信制大学でもそのような認識がある。
 確かに、オンライン授業であってもグループワークは可能だし、アクティブ・ラーニングもできるに違いない。
 だが、ここで立ち止まってみたい。オンライン授業は対面授業と同じことをやらないといけないのだろうか。同じ質の担保には、同じ方法の担保は必要なのだろうか。同じ質の担保は、学修成果が同質(同レベルの到達度)であればよいということではないのだろうか。
 例えば、「アクティブ・ラーニング」という概念1つとって、通信教育にもアクティブ・ラーニングの要素はある。なぜならば、「通信教育において自学自習の成果をもってスクーリングに参加し、さらにその成果を持って自学自習に励む」、その営みをとってみれば、そこには学修者の主体性があり、レポートでの教員とのやり取り、スクーリングでのディスカッションやワークを通じた対話があり、対面のみならず自学自習のみでもない多様な学修形態の組み合わせによる深さがあるからである。そこには方法論の違いを超えた、理想とする教育に向けた取組みがあった。このことは通信教育を包含する(広義の)遠隔教育においても同様のはずである。
 にもかかわらず、私たちは、この状況下で遠隔教育を狭義に捉えるのみで、対面教育の単なる代替と考えてしまってはいないだろうか。そこに広がる世界、本提言の井上氏(第4回)や白石氏(第6回)の伝える豊かな世界を見落としてはいないだろうか。

山登りになぞらえて

 以上を受けて、今後についての明るい未来も考えてみたい。
 そのために、話を少し広げて、通学制での遠隔授業に限らず、通信制についても含めて考えたい。通信制大学には今、多くの社会人が多く学ぶ。彼らは学歴上では通学制の大学生と同じ高卒であったり、違って大卒であったりする。このような学歴上の多様性以上に、彼らの生きてきた道のりは、長さも含めて通学制の以上に多様である。すなわち、通学制と通信制では、大学という山の登山口が違うことも少なくない。そして登山口の違う2つの学生たちは、同じ卒業(あるいは学修目標の到達)という山頂を目指す。だが、登山口が違う以上、その道のりは違っていいはずである。さらに、こと通信制の中では、その山の頂も本当は1つではなく、学生それぞれの山の頂があるのかもしれない。
 このように通学制と通信制の個々の特徴に着目し、あるいは多様な学生のいる通信制の特長に着目すれば、違いがあることも想像しうる。そして実は、このような多様性に沿った考え方は通学制の中でも言えているはずなのだ。
 通学制は確かに、学生層の点で比較的集中した世代や似た背景になりやすい。だがそのような場であっても、仮に登山口、山の頂に共通性があっても、登山ルートは1つとは限らない。それは対面授業中心のルートかもしれないし、遠隔授業中心のルートかもしれない。そうした学びの多様性は大学個々では実現しづらいかもしれないが、大学業界全体では実現しうると考えられる。
 今、この遠隔授業の急浸透の先には、2つの可能性ある世界が待っているのかもしれない。その1つが、各大学が対面授業と遠隔授業を上手に使いこなす未来であり、もう1つが、例えば通学制であっても対面教育に強みを持つ大学、遠隔教育に強みを持つ大学というように大学ごとでの多様性が広がる未来である。これらの未来では、現在のように均質な空間でのアクティブ・ラーニングではなく、個々の学生自身が学修をデザインした、より本質的なテーラーメイドのアクティブ・ラーニングが実現するのではないだろうか。実は、そのためには、遠隔教育の意義、可能性、限界を含め、「遠隔教育とは何か」への本質の追求が必要なのだ。まさに求められるのは自立した教育手段としての、学としての遠隔教育の確立なのである。

石原 朗子(星槎大学)
 

第6回 緩い「つながり」の遠隔教育

「私は通信教育で救われました」
 これは、社会通信教育の受講者で文部大臣賞(当時)を受賞したビジネス・パーソンの言葉です。
 この方はうつ病のため長期入院を強いられ、毎日、ぼんやりとした不安のなかで療養生活を重ねていました。もんもんとした生活で、なにもやる気にもなりません。見るに見かねたのでしょうか、医師から通信教育をやってみませんか、と勧められ、社会通信教育のパンフレットを渡されました。通信教育には興味もなかったし、特別に学びたい分野もありませんでした。しかし担当医師から熱心に誘われたので、学べそうな実務統計の講座を始めました。
 統計に特に興味があったわけではなかったようでした。ただ、療養のルーティンに従うように、印刷教材や機関紙を読み、練習問題を解き、レポートを書き、添削指導を受けました。そのうちにこれまで経験したことのない暮し方をしていることに気づきました。読んだり例題を解いたりしているときは、病気のこと、慌ただしい仕事のこと、家族のことなどを忘れている自分を発見することができたのです。返送されてきたレポートの成績や評価をよく読み、教材の復習をし、また返送し直しました。実務統計に興味がもてるようになったというより、通信教育の講座の学習に没頭できたので、逆に今までの視野狭窄に気づき、その「とらわれ」から解放され、少しずつ治癒していったそうです。
 社会通信教育ではスクーリングや面接指導はありません。ですから、実施団体、その支援者たちもメディア(上の事例では郵便や電話のみ)を活用し遠隔学習の支援をしています。例えば、添削指導者はレポートの評価だけではなく、受講者一人ひとりに向けたメッセージを添えます。通り一遍の「よくできました」ではなく、「○○さん、今回はよく努力されたことがわかります」という私信のようなメッセージを添えます。正解の周辺にある知識を添えることもあります。具体的に、教材の○ペーシを読み直してください。間違ってもいいですからまたレポートを送ってください、というような助言を添えることもあります。ちなみに、レポートには学習して感じたことを書く欄も設けている講座もありますから、この感想を参考に添削者は評価とは別に返事も添えていたのです。
 通信教育の弱点は学習の継続がむずかしい、中途で脱落する人が多いことです。しかし、このようなブーメランのようなメッセージの相互交流があると、受講者は学習を継続します。実施団体も修了期間の延長などの配慮をしています。スクーリングも面接指導もありませんから、遠隔教育だけでできるサービスを展開しています。もちろん、近年はメールでの「やりとり」、動画配信、DVDもあります。
 先の受講者はこうした「やりとり」をしているうちに、病気と格闘しながらも、通信教育に熱心に取り組みはじめ、大臣表彰を受けるに至ったのでした。療養生活も終え、職場にも復帰、表彰式で初めて会った私にはうつ病に苦しんでいた方とは思えませんでした。また、実施団体の代表者には側面から支援してくれた感謝の言葉を繰り返していました。

「間柄」より「事柄」に専念
 この種の事例を大学通信教育でも経験しましたので、通信教育にはある種の治癒力があるように思えます。もちろん通信教育で病気が治るなどと言うのではありません。しかし、医療も究極的には本人の自然治癒力で依存するように、学習支援も学習者のもっとよく学びたい、もっと善く生きたいという、本人も自覚していないような本心を援助することにあるのではないでしょうか。
 世の中はこの本心を抑えるメカニズムが働いています。日本人の人間関係です。うつ状態で悩んでいる患者さんの主因は人間関係があるといわれています。職場の上司や同僚や部下との対立・軋轢を避けるために、自分の主張や希望を抑制しようとする傾向があります。いじめを受けたり不登校なったり生徒たちは、教師や友人などに気づかいすぎ、相談したり質問したりできなくなります。こうした傾向が続くと、人はいつも緊張関係を強いられストレスをため込んでいきます。
 タテマエでは個性重視といいますが、個々の企業文化や個々の学校文化に合った個性でないと居心地が悪くなります。先行研究が明らかにしてきたたように、日本ではいわゆる「空気」を読まなければなりません。職場、授業・部活、お隣さんの「空気」を意識した協調性が求められます。転職、引きこもり、不登校などはこうした「空気」からの緊急避難ともいえます。
 また、高いコミュニケーション能力が標榜されていますが、やっかいなことがあります。日本語の対面コミュニケーションでは話し手と聞き手との人間関係を組み込ませる機能が働きます。この「磁場」では、尊敬語、謙譲語、タメ口などを駆使しなければなりません。匿名SNSの書き込みが自由なのは、逆に、対人関係を意識せずに発信できるからでしょう。「千円からお預かりします」調のコンビニ用語も、対面する客との関係を意識せずに言える表現だからです。逆に、対面コミュニケーションの場で日本語の機能に引きずられると、対等な会話ができない状況が生まれます。率直な意見や才気走った質問はご法度、という職場や学校は少なくありません。
 先の事例が示すことは、通信教育で学んでいるかぎり、その時には職場や学校や家族などの人間関係からいったん離れる場ができます。職場や学校のように相手との間柄から学ぶのではなく、事柄だけから学べばいいのです。音楽療法や園芸療法は、楽器や草花と自分とだけ向い合っていればいい関係を用意します。事柄の真偽や正誤からだけ学び、上司や教師との間柄、相手の人柄に縛られずに、学べます。
 とりわけ社会通信教育では評価はあっても単位、資格取得、卒業資格などを求める受講者はいませんから、コミュニケーションも対等です。基本的にはテクスト(文字・数字、音声、映像モードなどを含む)の「やりとり」だけです。この「やりとり」が進行するうちに受講者と指導者・支援者との「つながり」も形成されていきます。また、指導者・支援者も「つながり」が中断しないように、ブーメランのごとくに、受講者への1対1の応答を懇切にする必要があります。もちろん受講者は学生・生徒ではありません。消費者ですから、クレームもあります。懇切な対応を怠ればビジネスも成立しません。
 つまり、遠隔教育の特長はいったん人間関係から離れ、事柄(学習内容)から学ぶことができる点にあります。また対人関係を意識した場ではないので、客観的な記述ができ、対等な相互交流が可能です。しかも読書やブログとは異なり、書いた文章に対し専門家からコメントが戻ってくるので、自己流の理解が避けられます。前述のように、解答への評価だけではなく、インフォーマルな助言が得られることもあります。こうした複合的な「やりとり」があれば、生身の人間教師でなくとも、メディアを通じて、ほどよい「へだたり」(遠隔)のある人間関係、緩い「つながり」が得られていきます。この緩い「つながり」から新しい堅い「つながり」も生まれますし、緩い「つながり」で学び続けることもできます。
 第4回の提言で、井上恭宏会員が「通信制(高校)に来てからは先生とよく話をするようになった」という生徒の声を紹介しています。その理由は「『教える』ということと同時にレポートに『一緒にとりくむ』という雰囲気が出てくる」点にあると指摘しています。単位の認定、進学・卒業がある高校の通信教育課程でも、社会通信教育のように、共に学び合う方向は可能なのです。同時に、メールだけの「やりとり」ではなく、適宜、面接指導で補完している実態が報告されています。

対面方式から遠隔方式へ
 「間柄」や「人柄」を軽視した「脱人間」の遠隔教育でクールな「無縁社会」をつくろう、というのではありません。世の中が困難な情況に陥ると絆、堅い「つながり」が強調されます。心情的にはわかりますが、この堅い絆は内輪だけの、排他的な「つながり」になりかねません。
 大学通信教育のスクーリングや学習会でよくこんな光景を見ました。あるグループが仲間として親しく話しています。久しぶりに再会できたうれしさで、仲間内だけで通用するジャーゴンなどで盛り上がっています。しかし、この盛り上がりに圧倒的に多い他の出席者--もちろん社会人や高齢者--はかえって孤独感・疎外感を味わいます。なかには不快感をもつ学生さえいます。私は教員としてこの「空気」をなだめる役割を果たしていました。教員としては一部とはいえ連帯感の強い受講者がいることは講義や演習を進めやすいのですが、圧倒的に多い他の受講者に「アウェイ感」をもたせないよう調整をしたものです。
 社会人を対象とした遠隔教育では、対面教育においても緩い「つながり」が必要です。かつてグラノヴェターは「弱い紐帯がもつ強さ」を提起しました。「強い紐帯」は情報を閉鎖的にするが,「弱い紐帯」は新鮮で有益な情報が得られる開放的ネットワークを形成する、という仮説です(注1)。先の事例も、社会通信教育で学ぶことによって職場や家族の堅い「つながり」からいったん離れることができた、といえます。テクストやレポートを通じて添削指導者やその団体と緩い「つながり」と「やりとり」ができたのです。
 やむを得ない状況からとはいえ、緩い「つながり」を促す「ナッジ(nudge 小さな誘導)」が展開されつつあります。「理性の狡知」というべきか、デジタルな「やりとり」で緩い「つながり」が始まっています。
例えば、企業においても在宅勤務、テレワークが実際に導入されています。同一の時間に、同一の場所で、社員一丸となって励むシステムは変わりつつあります。長く慣行化してきた通勤というシステムも、在宅勤務でも可能であることがわかってきました。わざわざ本社に全国の新人社員を集合させて行ってきた新人研修も、テレワークとして実施されつつあります。
 「ハンコ・紙・面談」のお役所仕事もデジタル化へ移行する措置をとり始めています。医療も遠隔方式で相談、投薬が可能になりつつあります。日常的な買い物も宅配で代替可能であり、遠隔方式によるショッピングが活発になってきました。
 したがって、対面の場でしか学べないと思われてきた暗黙知も、言語化・映像化し遠隔方式で伝達することが可能であることがわかってきました。
もちろん、「空気を読む」ような非言語コミュニケーションの言語化は難しいでしょう。人と膝を交えて話す会合などでは、話の内容よりも相手の口調やゼスチャーなどから話し手の感情も理解しなければなりません。話し手も、聞き手たちの顔の表情や姿勢などから、場の雰囲気を感じながら、話を進める必要があります。この非言語コミュニケーションも重要な意味があります。こうしたメッセージとメタ・メッセージの複合的なコミュニケーションをなんでも言語化・映像化できるわけではありません。言い換えれば、形式知による遠隔方式での伝達の比重を高めれば高めるほど、形式知に変換できない暗黙知が発見され、その重要性も相対的に高く評価されるでしょう。職場での仕事、教室での対面授業の重要性が再認識されるでしょう。
 さはさりながら、現下の状況は遠隔方式の「ナッジ」が進行しています。
 通学方式の大学でもオンライン授業が積極的に採用しています。田島貴裕会員の提言にあるように(第3回)、通学課程でも遠隔授業は以前から法的に可能になっています。井上恭宏会員(第4回)や土岐玲奈会員(第2回)も分析しています--通学課程の高校でも、小・中学校でも部分的であれ、特別のケースであれ、以前から法的に通信教育や在宅学習が可能である、と。小・中・高等学校、大学で、学習塾や予備校も急ごしらえながらオンライン授業を実施しています。
 遠隔教育の導入は、現在の法制でも可能なのです。今(5月3日時点)、「 9月入学制」が議論されつつあります。このような対面教育の「改革」より遠隔教育の導入・実施のほうが法制的にも現実的なのに、です。

対面教育という岩盤
 しかし、です。対面教育という岩盤、通学方式という岩盤が容易には崩れません。高等教育では遠隔教育を導入しませんでした。通信制大学院(修士課程)が導入されて20年。戦後、70年あまりの通信教育の歴史があるのに、です。小・中学校、高校でも同じです。学習塾や予備校などの民間の業者は導入してきた実績がありますが、正則の「学校式教育」では対面教育偏重です。古壕典洋会員(第1回)が思い起こさせた終戦後、教育の機会均等をうたって生まれた社会教育も、公民館へ通う、カルチャーセンターへ通う学習支援でした。社会通信教育の振興は衰退し、受講者数は減っています。
 私たちの「教育」は明治以来、対面教育・集団教育という岩盤を形成してきました。
 ただ、先のような「ナッジ」は生まれています。通勤の偏重、有給休暇もとれない「通勤制度」の岩盤には亀裂が入ったようです。明治期からの通学方式が下支えしてきた「通勤制度」が在宅勤務やテレワークで代替可能であることが実証されていけば、通学方式・対面方式も変わるかもしれません。
 ソーシャル・デスタンスが推奨されています。私はそれが「心理的距離」の再評価につながってほしいと考えています。繰り返しますが、緩い「つながり」、「弱い紐帯」の意義です。
 明治政府が批判した幕藩体制のもとでも、身分制社会でも、趣味の仲間、詩歌・芸能などの組織では身分を離れ、私的な領域をつなぐ「弱い紐帯」が容認されていたという実証的研究があります(注2)。徳川期の固定した秩序の内部でも対等なコミュニケーションがあったとの研究です。開放的な民主的社会を標榜する社会でも、この江戸時代の知恵に学ぶべきだと思います。明治以来の、戦後も持続した「学校式教育」偏重の対面教育の岩盤を崩すことができる知恵がここにあります。
 
白石 克己(元・佛教大学)


1 M・グラノヴェター(渡辺深訳):転職-ネットワークとキャリアの研究 ミネルヴァ書房 1998
2 池上英子:美と礼節の絆-日本における交際文化の政治的起源 NTT出版 2005
 
 
第5回 今こそ「大学通信教育」の活用を!

国の非常時には常に注目されてきた「通信教育」

 新型コロナウイルス感染症という、この未曾有の国難のさなか、数多くの国公私立大学が「遠隔授業(メディアを利用して行う授業)」の実施に踏み出そうとしつつあります。この決断には多くの関係者の「学びを止めてはならない」という断固たる決意を感じるとともに、これまで通信・遠隔教育に携わってきた研究者、また実務者の一人としては、社会からの遠隔教育に対する未だかつてない視線と期待、そして遠隔教育そのものが今後大きく変わってゆくであろうという、ある種の確信めいた「流れ」を感じています。

 実は、このような社会の非常時や、あるいは時代の大きな転換期において、国が「通信教育」に活路を見出したという出来事が、戦後の教育史においては幾度かありました。
 たとえば大学教育においては、私立大学による「大学通信教育」が、「昭和22年に学校教育法によって制度化され、昭和25年には正規の大学教育課程として認可(文部省認可通信教育)」(1)されました。これは戦後の「教育の機会均等」という社会からの要請に応えつつ誕生し、その後は社会的役割を時代ごとに変化させつつ、今日に至っています。
 また1950年頃から1962年にかけては「教育職員免許法認定通信教育」として、国立大学でも通信教育事業が実施されていたという事実(2)があります。これは公開講座や認定講習等と並び、戦後の第1次ベビーブームによる小学校就学人口の急激な増加を予見した国(文部省)による、当時不足していた教員の養成、ならびに現職者の再教育のための教育政策の一環と見ることができます。
 さらに今日、「大学通信教育設置基準」においては授業の方法のひとつとして「放送その他これに準ずるものの視聴により学修させる授業(放送授業)」が規定されていますが、その嚆矢は1958年の私立大学による(民法)放送の利用にあるといえます。ところが上記の国立大学における通信教育、特に北海道での事例おいては、補助的かつローカルに限定された取り組みでありながらも、当時の北海道大学・北海道学芸大学(現在の北海道教育大学)・教育委員会・教職員組合・NHK札幌中央放送局が協力し、なんとその4年も前から「へき地教育放送講座(後に「現職教育放送講座」と改称)」として、放送を利用した教育事業が実施(3)されていました。他のいくつかの県にも見られたこれらの取り組みは、後の(私立)大学通信教育における放送利用に影響を与えただけではなく、「放送による遠隔大学教育のモデル」(4)として、今日の放送大学のルーツとのひとつともみられています。
 このほかにも理・美容師の養成や税務職員の再教育など(5)においても、通信教育が活用されてきたという歴史的事実があります。このように通信教育の歴史は、戦後の教育史とリンクしながら今日にまで至っているとともに、国は常に社会の非常時や転換期に際しては「通信教育」とその活用とを念頭に置いてきたともいえるのです。

通学課程の学部等における「大学通信教育」の利活用

 未だ混乱の収まらない中、2020年度の授業開始に向けて、各大学が尽力を続けています。その中で「遠隔授業(メディアを利用して行う授業)」の活用ならびに、これまで明示されてこなかった制度面に関する国(文部科学省)の解釈(メディアを利用して行う授業の受講場所に「自宅」が含まれる点(6)、ならびに「教員が自宅において遠隔授業を実施」できること(7))等が示されました。これらの出来事は、わが国の通信・遠隔教育が、新たな局面を迎えたことを表しているといえます。
しかしその一方で、遠隔授業の実施にはいくつかの問題が立ちふさがっているともいえます。とりわけ、授業の実施・受講にかかわるデータの送受信量など教育・学修環境面の問題、大学側の設備やノウハウ、プラットフォームに関する問題等は、遠隔授業を成り立たしめる上で、避けては通れない問題であるといえます。

 こうした諸問題の解決のためにも、「通信教育からの提言」として、今こそ「大学通信教育」の方式と知見とが利活用されてほしいと思います。
 たとえば、大学通信教育の授業には「印刷教材その他これに準ずる教材を送付若しくは指定し、主としてこれにより学修させる授業(印刷教材等による授業)」と呼ばれる方法があります。これは「四十五時間の学修を必要とする印刷教材等の学修をもつて一単位」とし「添削等による指導を併せ行うものとする」こととされています。つまり教員・学生の手元に印刷教材等(いわゆる教科書)があり、適切なレポート設題とそこで併せ行われる添削等による指導という諸要件を満たすことにより、単位修得が可能となるわけです。遠隔授業に必要な膨大なデータ通信量と比較すると、eメールやLMS上でのやりとりで発生する通信量の負担が、ごく小さなもので済むということは明らかです。文部科学省におかれては、制度(設置基準等)の枠を飛び越え、たとえ当面の間の緊急措置的な扱いであったとしても、通学課程の学部等の授業にこれらの方式を取り入れるという案を、是非とも検討頂きたく思う次第です。
 また「単位互換」という方策も考えられます。通学課程の大学(学部等)と通信による教育を行う学部を有する大学(通信制大学)とが連携し、卒業に必要な単位数の一部に通信制大学での科目履修により修得した(印刷教材等による授業や放送授業による)単位を含めることを認めることにより、通学課程の大学の負担を軽減したり、あるいは従来から遠隔授業にも先進的に取り組んできた通信制大学と連携をすることにより、そうした大学や学部等の豊富な知見を、大学業界全体として今後の遠隔授業の実施にも活かすことが出来るのではないでしょうか。

 戦後の教育史の中にあって、常に困難を解決するための方途のひとつとして念頭に置かれてきた通信教育。今現在そこに携わる者の一人として、この未だかつてない難局にあってこそ、これまで数多の人々の「学びたい」という意欲と願いとに光明を示してきた「通信教育」の制度と知見、方法等が利活用されてほしいと思います。
 
山鹿 貴史(八洲学園大学)

1)    公益財団法人私立大学通信教育協会,「大学通信教育とは」 http://www.uce.or.jp/about/ (2020年4月27日 最終閲覧)
2)    山鹿貴史・鈴木克夫,2018,「国と通信教育 ―戦後大学政策における伏流の系譜―」『平成29年度 日本通信教育学会 研究論集』日本通信教育学会.
3)    北海道大学 編,1980,『北大百年史 部局史』ぎょうせい.
4)    赤堀正宜,1992,「教師教育における放送の役割 ―『北海道現職放送教育講座』の事例を中心に―」『放送教育開発センター研究紀要』第7号、放送教育開発センター.
5)    河崎吉紀,2008,「福祉としての通信教育 ―勤労青年から引きこもりへ―」佐藤卓己・井上義和 編『ラーニング・アロン』新曜社.
6)    文部科学省,2020,「令和2年度における大学等の授業の開始等について(通知)元文科高第1259号 令和2年3月24日」
7)    文部科学省,2020「学事日程等の取扱い及び遠隔授業の活用に係るQ&A等の送付について 事務連絡 令和2年4月1日」