阿部筲人『俳句―四合目からの出発』講談社学術文庫, 1984年.

2018/12/11

 「俳句の本」、選書の間違いでは?と思う会員もいよう。たしかに俳句の入門書といえる。しかし私は、通信添削をする者はもちろん、およそ文章を綴る者が参照すべき本だと考え、ここに紹介する。
 本書の目的は副題「四合目からの出発」が示唆している。富士登頂を目指しても「展望の利かない裾野を独りぼそぼそ歩くのをやめ、車を飛ばし、三合目を過ぎ、本日、いきなり四合目の木っ端天狗の仲間入り」ができる手引きにある。
 俳句にせよ、通信教育のレポートにせよ、不合格スレスレの「三合目」あたりで「ぼそぼそ」歩いてやり過ごすことが多い。頂上が確実に見える「八合目」あたりにたどりつかない。「四合目」から出発したい、その処方箋を具体的に指南しているのが本書である。そのために、初心俳句を約15万句をカードにし分類したという。実際、初心者の類似した句で例証しているから、説得力がある。
 一例を挙げよう。「落第の代表作」という。
 「秋の月を仰ぎ眺めて思い千々」
 俳句では月は秋の句だから「秋の」は無駄、「仰ぎ眺めて」も月を仰いだり眺めたりするのは当たり前だから無駄。「思い千々」も著者が排除する「感情露出」という俳句の最大欠陥を含んでいるので不要。結局、「この句について結論を言えば『月』の一語で、他は皆省略すべきものでした」。
 季語を入れ五七五と詠んだのに「月」しかメッセージにならないと切り捨てる。ムダなく・ムラなく・ムリなく文章を書け、と教える。なるほど添削指導にあたるときにも、分量に増やすための水増しレポートによく出合う。
 著者はこの論調で「水増し俳句」「お涙頂戴俳句」「ベタ惚れ俳句」「自己宣伝俳句」、はては「ああして、こうして、どうした俳句」などを指弾。駄句の共通点をユーモラスに伝える。しかし笑ってばかりはいられない。わが文章を検証する際の、自戒になるからである。逆に、著者から駄目を出された句にも、むしろ面白い、珍しい句も発見できる楽しみもある。
 舌鋒は鋭いが、弱い者いじめをしているわけではない。芭蕉などの大俳人もやり玉に上がる。堅固な理論への著者の自信がうかがえる。
 千代女の有名な句「朝顔に釣瓶とられて貰ひ水」への評--朝顔を憐れみ、ことさら水を他からもらったという風流振りをわざとらしくひけらかします、と。名句とされるあの句を嘘っぽいと断ずる。
 
高浜虚子の句も捨て置かない。文語表現の初歩的誤りをこう突く--(「植う」を「植ゆ」と書くのは)昔の試験では落第点ものです。(略)大御所的存在が、かかるていたらくですから困ったものです、と。
 総括していえば、初心者もプロも紋切り型の俳句に安住している。しかもこの点は俳句にとどまらない。日本人の物の見方に共通する「てこでも動かない固い岩盤」だ、と主張する。
 さて、添削指導のヒントになればとひもといた本書だが、「添」はほとんどなく、「削」の多い「べからず集」ともいえる。著者の言い分では、自分が指摘した「削」に従い「添」は主体的に工夫せよ、ということだろう。
 しかし、添削者としてわが身を振り返ると、本書同様、添削といいながら「添」は少なく「削」が多かった。序論が長すぎるから簡潔に、引用が多すぎるから短く、という類の講評が多かった。レポートのどこをどう修正し何を書き加えるべきかの助言が少なかったと反省する。初心者だからこそ、「添」をも書き込まないと不親切な指導になる。
 「添」の一つの策は「褒める」ことである。大上段に批判せず、よい点を指摘する。さらにレポートからうかがえる相手の力量に応じて、問題点を具体的に指摘し「教科書のある箇所を読み、こう修正してごらんなさい」と添えることである。
 弦から放った矢は戻ってこない。しかし「言葉の矢」は戻ってくる。ところが、本書も、レポートの添削指導も、作句した人・レポート提出者から反論がない。戻るはずのない矢に安心して、一方的に批判の矢を放っている観がある。もちろん「不合格・再提出」のレポートは戻ってくる。しかし弁解や反論は書けない。真偽が確定できる数理的な通信指導では一方的でもよいだろう。しかし多くの人文系の領域では、真実は受講者と指導者との相互交流のなかにある。インターネットを活用する遠隔教育では「添」も「削」も伝え、しかも文字・数字に限らず、図解・音声・映像も加え、相互交流を図る添削が求められる。
 なお本書は入門書らしく詳細なルビが施されているが、ここでは紙面の都合で省略した。著者の名だけはルビをしておこう--しょうじん、と。
                                        (元・佛教大学 白石克己)
                                  (「日本通信教育学会報」通巻51巻より)